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シドニー・チャップリン (1926年生) : ミニ英和和英辞書
シドニー・チャップリン (1926年生)[せい, なま]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
年生 : [ねんせい]
 【名詞】 1. pupil in .. year 2. student in .. year 
: [せい, なま]
  1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed 

シドニー・チャップリン (1926年生) : ウィキペディア日本語版
シドニー・チャップリン (1926年生)[せい, なま]

シドニー・アール・チャップリン, 1926年3月30日 - 2009年3月3日)はアメリカ合衆国俳優。喜劇王チャールズ・チャップリン(以降チャーリー)の二男であり、チャーリーの異父兄で同名の俳優、コメディアン、マネージャーおよび実業家の「シド」シドニー・チャップリンは伯父にあたる。名前に関しては、項を改めて説明する。
「喜劇王の息子」として紆余曲折の幼年期から思春期を過ごしたあと、父チャーリーに役者として見出される。映画のほかブロードウェイの舞台にも立ち、1957年にはトニー賞(ミュージカル助演男優賞)を得た。後年はレストラン経営のほか、父チャーリーを扱ったドキュメンタリーに登場して父の回想を行った。'', 1926年3月30日 - 2009年3月3日)はアメリカ合衆国俳優。喜劇王チャールズ・チャップリン(以降チャーリー)の二男であり、チャーリーの異父兄で同名の俳優、コメディアン、マネージャーおよび実業家の「シド」シドニー・チャップリンは伯父にあたる。名前に関しては、項を改めて説明する。
「喜劇王の息子」として紆余曲折の幼年期から思春期を過ごしたあと、父チャーリーに役者として見出される。映画のほかブロードウェイの舞台にも立ち、1957年にはトニー賞(ミュージカル助演男優賞)を得た。後年はレストラン経営のほか、父チャーリーを扱ったドキュメンタリーに登場して父の回想を行った。
==生涯==

===前半生===
シドニー・アール・チャップリンは1926年3月30日、チャーリーと当時の妻であったリタ・グレイの間に二男として生まれる〔最初の妻ミルドレッド・ハリスとの子で、生後3日で死んだノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年7月7日 - 1919年7月10日)を含めると三男。〕。誕生日を3月31日とする記録もある〔#Find a Grave〕〔#The Independent〕。当初の予定日よりも5週間も早い早産であった〔#ロビンソン (下) p.48〕。当時、チャーリーとリタとの結婚生活は順調とは言えず、チャーリーは仕事に没頭して私生活は二の次の状態であった〔#ロビンソン (下) p.51〕。同じ1926年の11月末にリタはシドニー、チャールズ・チャップリン・ジュニア(以降チャールズ・ジュニア)を連れて家出する〔。1927年に入って早々、リタはチャーリーとその周囲に対して離婚訴訟を起こす〔#ロビンソン (下) p.53〕。リタ側の弁護団の目論みは、チャーリーをかつてスキャンダルで役者生命が断たれた「ファッティ」ロスコー・アーバックルのような立場に落とすことであり〔#ロビンソン (下) pp.53-54〕、チャーリー側の弁護士の対応がよくなかったり訴訟に呼応して女性団体がボイコット運動を行ったこともあったが、リタ側の弁護団の目論み通りにはいかず、チャーリーの人気は衰えなかった〔#ロビンソン (下) pp.54-56〕。訴訟は8月に終わり、チャーリーが60万ドルの慰謝料とシドニーとチャールズ・ジュニアの養育用の信託資金を1人当たり10万ドルをリタに支払うことで決着し、一方でチャーリーはシドニーとチャールズ・ジュニアと面会する権利が認められた〔#ロビンソン (下) pp.59-60〕。
しばらくの間、シドニーとチャールズ・ジュニアはリタの下で暮らすこととなり、リタの母親が養育にあたっていた〔#ロビンソン (下) p.142〕。チャーリーはどちらかといえば面会を遠慮しがちであり、おそらく10回にも満たなかった〔。チャーリーが『街の灯』(1931年)完成後に世界漫遊の旅に出たころ、シドニーとチャールズ・ジュニアもニースにいたリタの母親の男友達のところに滞在し、フランス語を習得するなどの生活を送った〔#ロビンソン (下) p.143〕。1932年夏、シドニーとチャールズ・ジュニアはリタに呼び戻される。リタは息子たちとともに映画に出演する契約を結んでおり、そのためにヨーロッパから呼び返されたのであるが、チャーリーがこれに異議を申し立てて裁判となり、最終的にはチャーリーの異議が認められて映画出演はなくなった〔#ロビンソン (下) pp.143-144〕。このころ、シドニーとチャールズ・ジュニアの遊び友達の中にシャーリー・テンプルがいたため、映画出演がなくなったことに対して当時は納得していなかった〔#ロビンソン (下) p.144〕。この裁判以降はチャーリーは頻繁にシドニーとチャールズ・ジュニアに会うようになり、養育用の信託資金をめぐって別の裁判が起こってチャーリーが勝訴して以降、チャーリーとリタとの間の接触はほとんどなくなった〔#ロビンソン (下) pp.144-145〕。代わって、チャーリーはポーレット・ゴダードと接触するようになり、シドニーとチャールズ・ジュニアもポーレットを気に入った〔#ロビンソン (下) pp.149-150〕。
やがてシドニーは思春期を迎えるが、落ち着きと規律がないまま成長し、平たく言えば「わがまま」な状態で迎えることとなった〔#Imdb〕。『独裁者』(1940年)の巨大砲のシーンを見学していた時のこと、シドニーはチャーリーの滑稽な演技に声を上げて笑い転げたが〔#ロビンソン (下) p.207〕、あいにく『独裁者』はチャーリー初のトーキー映画であった。場違いな笑い声が入ったことを知ったチャーリーは激怒し、シドニーを見つけて雷を落とした〔。『独裁者』の件はチャーリーがすぐに機嫌を直したがためになんとかなったが〔、私生活、特に教育の面ではどうしようもなくなっていた。16歳を迎えるまでに3校の寄宿学校に入っていたものの、落ち着きがないゆえに勉強に身が入らず、「問題児」としてすべてつまみ出されるという結果となった〔〔〔#NYT〕。真珠湾攻撃をきっかけにアメリカが第二次世界大戦に参戦後、シドニーはアメリカ陸軍に入隊する〔〔#ロビンソン (下) p.222、228〕。バズーカ歩兵としてジョージ・パットン率いる第3軍に加わり、ヨーロッパの戦場に赴いた〔〔〔。やがて大戦も終わり、シドニーは復員した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シドニー・チャップリン (1926年生)」の詳細全文を読む




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